Acoustic Guitar Life

松山千春が綴った北海道「大空と大地の中で」解説エッセイ

竹田と二人三脚で歩むプロへの道

コンテストから約1年後の昭和51年3月に竹田からの呼び出しで千春は札幌のSTVを訪れる。ラジオ出演のオファーだった。4月から毎週日曜日にサンデージャンボスペシャルのワンコーナーとして「千春のひとりうた」を設けるという内容だった。この企画は竹田が社内で既に決まっていた企画をゴリ押しで変更し、千春のためにコーナーを作り上げたもので、もちろん失敗に終われば竹田の首も飛ぶことになる。竹田は千春と死なばもろともの覚悟でこの企画を千春に説明する。

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しかし、千春は突然のオファーで戸惑ったのと、父親の家業の手伝いが頭をよぎったことで、煮え切らない態度だった。15分の番組のために足寄と札幌を7時間かけて往復することも足かせだったのだろう。「親父を一人にはできない。自分の人生は親父が死んでからでもいいと思ってるんだ。親父が打ち込んでいるローカル新聞の仕事を最後までやらしてやりたい」というのが千春の本音だった。しかし、竹田は引き下がらず、熱意が千春を動かした。松山家の家庭事情や千春の父親への思いを知った上で、それでも「俺はお前の歌をたくさんの人に届けたい」と真正面から竹田は千春にぶつかったのだ。

千春は「赤の他人の俺をわが子のように思ってくれた。竹田さんの気持ちを察するに、この人なら自分の人生を賭けてもいいと思った。本気で自分に向き合ってくれる人には、本気で付き合っていく」と評している。そして、ラジオ出演を知った父が息子に送った言葉は「やるなら最後までやり通せ」だった。

かくして千春は二人の親父を得て、確固たる決意のもとプロへの道を突き進んでいくことを心にきめたのだった。

「毎週二曲作ってこい」これは竹田が千春に与えた試練だった。竹田は自分の手で立派なフォークシンガーを育てたいという思いから、プロでも過酷とも思えるノルマを課していた。人前で歌うことの訓練、オリジナル曲を書き続ける訓練、これはプロを目指すには最低限備えていなければならないことだ。若い千春は誠実に竹田の期待に応えて作曲にのめりこんだ。一週間で2曲、一か月で8曲、半年で48曲となりアルバムが4枚できる計算になっていた。竹田は千春をラジオ番組で育てていく一方でレコードデビューの話も進めていたが、実際に千春がレコードデビューできたのは昭和52年の1月だった。

STVラジオの公開収録で千春の人気は急速に高まり、もっと早い時期にデビューすることは可能だったが、「旅立ち」の価値を最大限リスナーに伝えるには卒業のシーズンがベストだということで戦略としてデビューを遅らせていた。デビューが1年遅れたことによって千春は多くの曲を生み出し、この期間でプロとして必要な実力をつけて、竹田指導の下トーク術も磨きあげていった。

竹田の指導はこうだ「とにかくお前が今本気で考えていることを素直にしゃべるんだ。作りごとではお客さんを説得できない」千春は等身大で自分の悩みや思いを口にしていく中で若者の共感を呼び、命を懸けて歌に取り組んでいることが伝わっていった。そして、公開収録が始まって3か月後には507名収容可能な収録ホールのドアを開けておかなければいけないほどの人気者となっていた。毎週2曲作って演奏するという行為は足寄で暮らす自分、大地の中で生きている自分、多くの人に支えられている自分、仲間との思い出などを、フォークという絵具でスケッチブックに記録していくようなものであった。

千春はこの修業期間で、北海道で生きているからこそ自分であり、これが自分のフォークなのだという哲学を深めていったに違いない。後にコンサートでこんな言葉を語りかけている。「俺にとっては東京も大阪も北海道も地方。みんな自分の地元を愛せばいい」つまり千春が歌っているのは北海道であるが、それはたまたま自分が生まれたのが北海道であるだけだということで、彼の歌の本質はそれぞれ皆が心に持っている故郷への思いであり、賛歌なのだ。

昭和52年1月になるとファーストシングル「旅立ち」、6月にはファーストアルバム「君のために作った歌」をリリースし、瞬く間に北海道のトップシンガーとして君臨する。そして8月にはいよいよ「旅立ちコンサート」の開始が決定した。運営の総指揮を行う竹田はコンサートに向け、札幌市内の有名楽器店「玉光堂」でマーティンのD-28サンバーストを購入して千春に送っている。のちに、竹田が亡くなった後、千春は「やっぱりこのギターは竹田さんの家にあるのがいい」として息子さんに寄贈したという。

8月8日にスタートしたコンサートは新人には破格の扱いで、2,300人という北海道で最大の収容を誇る札幌厚生年金ホールを皮切りに、全道8か所のコンサートツアーという内容だった。第一部はギターの弾き語り、第二部はバックミュージシャン付きで全18曲の構成で、観客は開場3時間も前から行列を作って開始をまっていたという。北海道でのコンサートには東京のマスコミ関係者も多数参加しており、これをきっかけとして全国規模で松山旋風が吹き荒れていくことになった。

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