Acoustic Guitar Life

松山千春が綴った北海道「大空と大地の中で」解説エッセイ

ACOUSTIC GUITER LIFE Vol10 | エッセイ | 名曲解説
大空と大地の中で 歌詞

「幸せを自分の腕でつかむよう」という「大空と大地の中で」の中に出てくるフレーズが私の心をつかんで離さない。自分の「手」ではなく「腕」で幸せをつかむ。なんとも泥臭い表現ではないか。汗と時間とひたむきな努力の結果で得るものが「腕前」だ。簡単に「手」でつかみ取れるものは本物の幸福ではないと訴えかけているかのよう。そして歌い上げる声は透き通り、やさしく語りかけてくる。この甘い声と歌詞のアンバランスさは、外見やカッコよさの追求ではなく、ありのままの自分を、北海道の雄大で厳しい自然を表現することが、彼にとってのフォークであると伝えている。

松山千春はどのような思いからこの詩をつむぎ、歌ったのか?「大空と大地の中で」誕生までの軌跡をたどりながら人物像を読み解いていこう。

大空と大地の中で 作詞・作曲:松山千春

<アーティストプロフィール>
「‘75全国フォーク音楽祭」北海道大会への出場をきっかけに1977(昭和52年)年1月25日「旅立ち/初恋」でデビュー。通算発表シングル81作、通算オリジナルアルバム39作。
北海道足寄町出身1955年(昭和30年)12月16日生まれ血液型:O型北海道在住

松山千春のフォークと普遍性

フォークとの出会いは岡林信康

昭和42年、千春が小学6年生の時に岡林信康の曲を聞いたのがフォークとの最初の出会いで、中でも昭和44年発売のアルバム「私を断罪せよ」に衝撃を受けたという。「今まで聞いていた歌謡曲とは異質なもの、熱いものを感じた。あとで本屋に行って音楽雑誌を読んでプロテスト・ソングだと知った。岡林さんの歌はどれを聞いても世相を皮肉っているし、恋愛を歌っていたとしても、そこに人生観のようなものが流れていた。歌をきいて自分なりに恋や生き方を考えたのはそれが初めてだった」

当時の日本のフォークの現状といえば、昭和40年にベトナム戦争の激化に伴い、それまで大学生の間でコンテンポラリーフォークがコピーされて楽しまれている程度だったものが、社会的な問題意識を表現する手段として用いられるよう変化していた時代だ。昭和41年に関西ではフォークソング愛好会が誕生し、ここからプロテスト・ソングとしてのフォークが生まれた。その後、高石友也、中川五郎、フォーク・クルセイダーズ、高田渡などと並んで岡林は関西フォークの看板的存在となり、その後、全国規模のファンを獲得していった。やがて、日本での学生運動が収まるにつれ、フォークソングも外に向かってのプロテスト・ソングから、自己の内面語りや日常生活を表現するのが主流となり、いわゆる四畳半/私小説フォークが流行する。北海道の片田舎に住む小学6年生の千春はベトナム戦争や学生運動を理解し、共感したから熱いものを感じたのだろうか?それとも目新しさだけでフォークにひかれたのだろうか?その答えは千春が父親とどのように生活してきたのかを探ることで見えてくる。

子守歌がわりに世界と日本を語った父

千春の父、松山明は大手新聞社を退職後職を転々とした後に、地域のコミュニティー新聞を発行する「とかち新聞社」を立ち上げる。新聞社といっても一人で取材から出版までをこなす家庭内手工業の新聞社だった。千春が小学4年生の時、父親は新聞で町長の不正事件を告発し、そのことで町長側から訴えられ裁判闘争に発展していた。不正は不正とスジを通したため、協力者も少なく、松山一家は貧乏のどん底生活をしいられることになる。また、千春が小さいころに患った大病の治療費の借金もまだ残っていた。そこで母親は家計を支えるために土方の仕事を始め、長い時間家を空けるようになっていた。必然的に千春は父親と過ごす時間が増え、頑固を貫くジャーナリストである父の背中を見ながら成長していく。父は学校から帰ってきた千春を検察庁や裁判所に連れて行った。また、仕事柄政治関係の人が松山家に出入りして話をしていたが、千春は興味を持って静かにその話を聞いていたという。

千春は小学生の低学年ではあったが、頑固一徹に正義を貫く父の姿や、貧乏になっても妥協しない姿勢、裁判のなかで明かされる事件の真相と人間関係、こうした大人の世界の仕組みを肌で感じて理解していったと思われる。岡林の歌の中に「熱いもの」を見つけたと千春は語っているが、これは幼少期の体験が「熱いもの」を理解できる素養を育てていった結果なのだろう。

さて、後日談になるが千春と家族とのエピソードでこんな話がある。音楽で成功した後「父さん母さん、贅沢ってしたことがないだろう?俺、お金があっても使い道がないから使っていいよ」と伝え、千春は家に大金を差し入れている。素直な両親はその大金で帝国ホテルのスイートルームに宿泊するなどし、見事使い切り、千春の度肝を抜いている。「ディナーショーを帝国ホテルで行ったときに支配人から、いつもご利用ありがとうございますと言われて分かったのよ。俺なんかアイビス六本木ホテルに宿泊だぜ」。千春の人間としてのスケールの大きさは父親ゆずりなのかもしれない。

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ウクレレをギターに見立てて

中学生のころ千春はギターを友人に借り、当時流行の音楽雑誌だった「新譜ジャーナル」や「ガッツ」を読んで独学でギターを練習していた。貧乏ゆえに自分のギターを手に入れることができなかったが、中学2年のときに都会から帰ってきた姉・絵里子がウクレレを持ち帰り、憧れだった楽器を手に入れることになる。

千春はウクレレの4本弦をギターの下4絃にチューニングし、ギターに見立てて練習を始めた。岡林の歌を中心にPPM、ブラザース・フォーの他、ビリー・バンバンの「白いブランコ」、シューベルツの「風」、カルメン・マキの「時には母のない子のように」といった当時流行していた曲を片っ端からコピーしては弾き語っていた。そして、多くのフォークソングをコピーしていくにつれ、岡林のフォークが異質なフォークだとの認識も深まっていったという。

高校入学後、千春は学園祭の前夜祭に飛び入り参加し、岡林の代表曲「私たちの望むものは」を弾き語る。演奏後、割れんばかりの拍手を浴び、歌で誰かを感動させるのがどういうことかを初めて経験したのだ。歌を歌い、感動させ、感謝されるという体験は、千春をますますギターに傾倒させる。高校2年時にはバイトで稼いだお金で5千円の中古のギターを手に入れ、日夜練習に励む日々を送っていた。

千春が高校生活を送った昭和46年~48年は関西フォークから生活フォークへの転換期であり、新しいフォークの形態が数多く登場してきたころだ。吉田拓郎、井上陽水、かぐや姫などが登場してくる中、千春は選り好みせずにコピーをしながら、フォークについての分析も同時に行っていたという。千春は当時を振り返り「高校に入ってから、加川良さんの『伝道』を聴いた時には新鮮な感動をうけた。それは直接的なプロテストではなく、洗練されたプロテストだと感じた。表現方法を変えるだけでこうも違う感じになるものなのかと感心したし、時代が変化しているのを感じた。そんな中、吉田拓郎が出てきた。吉田拓郎によってフォークがメジャーになったことを理解していた」とコメントしている。

そして千春は高校3年になる頃には作詞・作曲を始める。後にデビュー作となる「旅立ち」も卒業を機に足寄を離れていく仲間を思い作ったものである。しかし、当時自作した曲は誰に披露するわけでもなく、あくまで自分のために作曲していたという。これは若さゆえの照れのため、公開するのをためらっていたのだろう。高校を卒業し、社会に出た千春は人間としての成長とともに、覚悟をもって音楽に接するようになる。

場末のクラブでバーテンダーの仕事をしながら、客から要求があれば、歌謡曲から演歌まで、ジャンルを超えてなんでも歌い、仕事としての歌い手という要求に応えていた。そして、機械的に客の求めるものを歌う行為は、自分の歌を唄いたいという欲求を強めていく。千春は自分が音楽でやっていけるのかどうかの実験も兼ね、お盆休みに友人たちが帰省して集まった際、10円コンサートを開くことを決意する。高校生の時に作曲した「旅立ち」を初めて披露することにしたのだ。

自己表現としてのフォークを唄い上げた結果、旧友の中には涙を浮かべる人もいたという。かくして千春は、表現者としてのフォークで生きていく覚悟を持ち、まさに千春自身が「旅立ち」によって人生の新たな旅立ちを迎えたのは運命的なめぐり合わせと言えよう。

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